先日ハノイにて読書会に参加しました。今回の課題図書は遠藤周作の『沈黙』でした。遠藤周作はクリスチャンでキリスト教をテーマにした小説を数多く書いていますが、今回の『沈黙』は彼の代表作です。 前回の課題図書は『原民喜 死と愛と孤独の肖像』でしたが、遠藤は原民喜の歳の離れた親友として登場しました。原の作品に続いてもう少し三田文学をよんでみようということもあり今回は『沈黙』が選ばれました。
以下感想。
-- 『沈黙』 遠藤周作著 を読んで
2018年1月12日 竹森紘臣
この著書はポルトガル人の司祭であるロドリゴの日本潜入から「転び」に至るまでの物語である。ロドリゴは彼の小神学校時代の先生であるフェレイラ師が日本で棄教したという報を受けた。ロドリゴと同じくフェレイラの弟子にあたるガルペは師の「存在と運命」を確かめるために決死の覚悟で日本に潜入する。当時の日本は江戸時代でキリスト教は弾圧され、棄教しなければ死刑に処せられる状況であった。日本に渡ったロドリゴとガルペは切支丹の農民によってかくまわれ身を潜める。しかしそれに関わった切支丹たちが拷問により殺されていく。そんなことが繰り返されるうちにロドリゴはなぜこんなにも祈っているのに神はこの善良な切支丹たちを助けることなく見捨てるのかという思いを抱くようになる。そして神は本当に存在ししているのかという疑問を強めていく。
捕縛されたロドリゴはある日、切支丹が簀巻きで海に投げ込まれる処刑に立ち会わされる。そこには同僚のガルペがおり、ガルペは簀巻きの切支丹を救うために海に飛び込んで死んでしまう。神に祈るのではなく自分の肉体で彼らを救おうとしたガルペにたいして、自らを犠牲にせずに祈りだけで救おうとする自分自身を顧みる。ここでも信仰とは何かという疑問が大きくなっていく。処刑される切支丹たちが増える一方で、キチジローという人間だけが生き残っていく。彼は切支丹ではあるが役人の前で何度も棄教を繰り返し、そしてロドリゴを含めた切支丹たちを何度も役人に売った。ロドリゴはキチジローとキリスト教の裏切り者のユダとを重ね合わせる。なぜ神は裏切り者を生き残らせてそばに仕えさせたのか、なぜ善良な切支丹ではなくキチジローを残したのか。一貫して神の不在への疑念を通して、神の存在とはなんであるかをあぶり出そうとしている。
さて、私にはオーストラリア人でクリスチャンの仕事のパートナーがいる。彼は生まれてすぐ洗礼を受けた敬虔なプロテスタントである。彼とは私がベトナムにきたばかりに出会ったのだが、彼に出会うまではクリスチャンと深く接する機会は私にはなかった。彼は毎週日曜日のミサはもちろん、その他の日でも教会にいく。何しにいくのかとたずねると聖書の勉強会にいくのだという。この話を聞いたときに私はとても驚いた。クリスチャンは聖書に従って生きているのに、聖書の解釈がこんなにも定まっていないのかと驚いたのである。クリスチャンというのは聖書に従って、神の存在を信じ、迷いなく生きていける人たちだと思っていた。実際のクリスチャンと長い時間を過ごしてみるとぜんぜんそんなことはなく、一緒に仕事にも悩むし、独身時代は一緒に恋にも悩んだ。信仰の自由ということは心の底からありがたいし、お互いにそれぞれの宗教に対して排他的にならないでいられるというのは大切だということを学ぶ良い機会をハノイで与えられたと思う。
この物語では最終的にロドリゴは「転ぶ」ことになる。物語の最後でも元切支丹の筑後守、井上と議論になる。井上がいう日本という泥沼に足をとられて転んだという言葉に説得力を感じる。神は天にいるのではなく地にいるのではないかとこの作品を通じて私は思わされた。それが地に足をつけている人間をとおして立ち上っているイメージが物語から浮かんだ。だからこそフェレイロのいうとおり、ロドリゴが信じているものと日本の切支丹が信じているものは違ったであろう。この物語の少し前まで日本にはキリスト教はいなかった。一度は受け入れられたが拒絶され、幕末の開国後に禁教令が少しずつ緩和されていったという。開国後に文化的に西洋化した日本に、キリスト教の存在の余地が徐々にでてきたのではないだろう。地面から大きく変化していった文化や人の考え方に今までとは別の神が宿りはじめたのではないか。
私はオフィスで1人のオーストラリア人と6人のベトナム人と一緒に毎日を過ごしている。日本で自分が考えていた信心や絶対的な価値観というのはベトナムではそうではないことがおおい。自分もベトナムという「泥沼」に入っている気分を味わうことは少なくない。それに伴い自分の信心は少しずつ変わってきているだろう。確かにロドリゴは泥沼に足を取られて転んだのだが棄教したわけではないと本人は思っている。でも彼のキリスト教にたいする考え方にはきっと変質があった。
現代社会では世界中をいろんな人が行き来している。その数は物語の時代とは比にならない。こんな時代だからこそ人々の間に起こるいろいろな摩擦も大きくなってくるのかもしれない。今のところベトナムでは「転べ」といわれることはない。ありがたいことだと思う。この先も互いに尊重していけることを願う。
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